第765回 「明治時代の通信簿」

9月18日

先日、とても珍しい資料を目にする機会がありました。明治時代の通知簿と「児童保護者心得」という冊子です。日付は両方とも、明治40年とありました。明治時代の通知簿なんて、珍しい文献でしょう?

表紙に書かれた「島田龍文(りょうぶん)」という名前は、私の祖父で、保管していた従姉妹が見せてくれたのです。祖父は転校したようで、高岡郡戸波(へわ)尋常小学校と高岡郡上ノ加江尋常小学校の2冊がありました。

いわゆる旧字体で書かれた漢字には、ほとんどと言っていいほど、ふりがながふってあります。当時は、それだけ漢字が読める人が少なかったのかもしれません。
例えば学校なら「がっこう」とふりますが、これには「がっこー」と長音でふられています。相談=そーだん、教育=きょーいく など。その頃の生活の一端が垣間見え、興味深いですね。

「児童保護者心得」には、「家庭(うち)にての様子は時々お知らせありたき事」「時々学校を御覧に御出で下されたき事」これは現代も共通ですね。ところが、「三大祝日授与式入学式等にはなるべくお出ありたき事」。え、三大祝日って?

記述には、「三大祝日とは四方拝(一月一日)紀元節(二月十一日)天長節(十一月三日)のこと。」…まだわかりませんよね?
四方拝とは、1月1日の早朝に行われる皇室祭祀(さいし)。今の元日ですね。

紀元節とは、初代天皇である神武天皇が即位された日を日本の『紀元』(日本という国が始まった日)と明治時代に祝日として制定されたものです。建国記念日ですね。

天長節とは、明治天皇の誕生日だったのです。今は文化の日として残されています。
三大祝日は「我が国の最もめでたき祝日なれば家庭にては国旗を立て父兄は児童と共に打ちつれだちておいでくだされたし」。きっと学校でも大々的な式典を行っていたのでしょう。

授業開始時間は、10月・11月のみ午前8時半からで、あとは午前8時からとなっていました。この時期は農繁期だったからでしょうか?
あと、夏休みは8月1日から8月31日まで、冬休みは12月28日から1月6日まで。春休みは3月25日から4月5日までと、今より短かったようです。

右ページには皇室を尊敬すべきこととか、税金は期日までに収めろとか、兵役につく場合は喜び勇んで精を出せとか、明治時代の常識が書かれています。左ページは今の出席簿ですが、なんと「児童勤怠票」!勤怠、なんて言葉は初めて聞きました。

「児童心得」も興味深いですよ。
一.父母の命(いいつけ)をまもり学校の規則や先生の教えはよくまもれ
二.時間をよくまもれ
三.道にて先生やそのほかめうえの人にあったなら礼をせよ
四.学校の用具はていねいにとりあつかえ、入り用の品は忘れな
五.   言葉遣い、みなり、服装は学校の決まりにしたがえ
六.   けいこのほかにみだりに教室に入るな
七. 廊下を走りてはならぬ (…ほとんど武士ですね)
八. 体操場にありてはきまりの場所から他に出てならぬ
九.   先生の許可なくして品物の売り買いまたは貸し借りをすな
十.   品物をすてたときと拾った時とは届け出よ
十一.すべて人の迷惑となることはすな
十二.あぶない遊び又は博打に類する遊びをすな
十三. 姿勢をよくし何事にも整頓に気をつけよ
十四. 校舎校具をきれいに大切にせよ
十五. 他人を呼ぶに名前を呼びきりにすな
十六.買い食い又は喧嘩をするな
十七.ゆききのみちにて石なげなどすな

石投げが出てくるところが時代ですねえ。(笑)
でもなんだか、すっと背筋が伸びるような感じもしますよね。
「道で目上の人に会ったら礼をする」には「しつけ」という言葉が浮かびました。漢字では、身を美しく=「躾」と書きます。現代で、失われつつあるものです。

良い意味でのこの時代の「躾」を、今一度 意識することも大事なのかもしれません。