一番感じたのは、学生達は学校にいると「学校の論理」で強く護られている、ということ。
学校では「できるだけみんなに平等にチャンスを与えるように」と先生方は、心を砕いていらっしゃる。注意、追試、声かけなどで不利な生徒の力にもなってくださる。
だが、社会に出るとそうはいかない。 やる気があり、行動するものだけにチャンスは与えられるのだ。嫌でも出席さえすれば単位がもらえる、というような甘いものではない。
でも、そういうことは普段学校では教え辛いこともわかる。だから私たち外部講師の出番である。「寝る人、私語をする人は出ていっても良い。あなた達には出ていく権利がある。でも、他人の邪魔をする権利はない」と最初に話す。
ある学校では、騒ぐ生徒達に指導すると静かになる、でもまた騒ぐ、という繰り返しがあった。「騒ぐなら外に出なさい」と指導しても、出ていかない。後で確かめると進路担当の先生が「必ず受講しろ」と言明していたそうで、出るなという先生と出ても良いという私の矛盾した指導に生徒は混乱したのではないかと言うことだった。(まあ後半になると、彼らもそれなりに真面目に受講はしてくれるようになったのだが…)
しかし、もう半年もすれば社会に出て行く生徒達である。社会は学校のように平等でも、親切でもない。そういうことが社会に送り出されるまでわからない、というのでは遅いのではないだろうか。難しいことかもしれないが、もうこの時点で、学校の論理ではなく、社会の論理を教えるべきなのではないだろうか?
学校では、授業に遅れても少し注意されるだけだろうが、仕事に遅刻すると大変なことになる。先日お会いした経営者の方も、どうしても遅刻ぐせが直らない、ということで新入社員に辞めてもらわざるを得なかった、と残念そうに話していらっしゃった。「知っている」ことと「できること」は、全く違う。「遅刻してはいけない」ことは小学生だって知っているが、それが「できるかどうか」は、まったく違う問題なのだ。そして社会では「できて」、初めて認められる。こういう基本的なことが、どこまでわかっているのだろうか?
「高校受験の時に面接練習はずいぶんしたので、もう学ぶことはないと思っていました。
しかし、就職面接はそんな甘いものではないと痛感しました。」という感想も多かった。
そう、本当にそうなのだ。だから来てくれた学生には、精一杯社会の論理を教えたい。
今ならまだ間に合うのだから。それを知って社会に出て行くのとそうでないのは、最初の一歩が大きく違うと思うのだが…。
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