第866回 「高知追手前高校③ 元貴賓室と弾痕」

8月31日

高知追手前高校シリーズ、3回目は、時計台以上に伝説の部屋。
往時が偲ばれる元貴賓室、現在の校長室をご紹介します。

校長室は、2008年に講演会で伺って以来、二度目です。
今回 校舎の写真を撮るうちに、どうしても伝説の「元貴賓室」をネットに残したくなり、現在の藤中校長先生にお願いし、ご厚意で撮影させて頂けることになりました。
本当に感謝です。ああ、卒業生で良かった!(笑)

(ちなみに写真の扉の下部が濡れているのは雨ではなく、昔のワックスの油分が染み込んでいるとのこと)

木の扉をくぐると、そこには…

数々の歴史が刻まれた、追手前高校の最も神秘的なスペースが。
これが、噂の元貴賓室のたたずまいです。

クラシカルな木枠の高い窓、往時を思わせるひだカーテン、天井部の端のモールディング(縁どり)。ぜひ、クリックしてご覧下さい。

この扉は、隣の事務室へ繋がっています。実は建築当時は、現在の事務室が校長室だったというお話を伺いました。そのため、事務室にも天井近くにモールディングが施されています。

そして、この北側の窓枠の右下に、まさに歴史が刻まれているのです。

「弾痕 1945年」とあります。
昭和20年7月4日、高知市は大空襲を受け、追手前高も講堂などが焼失しました。その時、この貴賓室にもグラマン爆撃機の機銃掃射の銃弾が飛び込んだのです。

爆弾は東側三階教室の天井も突き破り盛んに燃え始めましたが、校舎の屋上一面に毛細管のように水が通っていて、自動的に火災を消し止めた(!)とか。昭和6年当時に、スプリンクラーも設置されていたそうです。爆弾が貫通した部屋は長く進路指導室で貫通痕もあったそうですが、現在は修繕して教室として使われていると伺いました。

墨で、弾痕を囲ってあります。奥には銃弾がそのまま残っているのでしょうか。
後ろの壁は耐震補強をして新しくなっていますが、窓枠は当時のままの物が今も残されています。かつては校舎の南壁や時計台にも弾痕が残っていたそうですが、現在も残っているのはこれだけです。

シャンデリアも、昔の物のようです。近代建築のホテルを思わせる、まさにクラシカルな雰囲気です。

下から見ると、こんな感じです。

シャンデリアが吊されている、天井のメダリオン。この意匠(デザイン)は、当時の職人さんが腕を振るって作ったのでしょうね。

白が映えるモールディング(縁飾り)は、石膏作りでしょうか。何種類もあり、手が込んでいます。

残念なことに、建設から88年経過しているため、モールディングの剥落があちこちに見られます。校長先生がおっしゃるのに、「この上は普通教室なので、どうしても椅子や机を動かす振動で落ちてしまうのでしょう。でも隣の事務室の上は職員室なので、あんまり外れていないんですよ。」とのことでした。

青のビロードが美しい椅子。そう言えば昭和の時代には、こういう椅子をよく見ましたが、最近は見かけなくなりましたね。これも、修理して使っているそうです。

卒業生でライオン宰相と言われた、濱口雄幸氏の直筆の書が2つ掲げられています。右は「質実剛健」と書かれており、来校した際に即興で書いてもらったそうです。

濱口氏は昭和4年に首相となりましたが翌年凶弾に倒れ、昭和6年8月に亡くなりました。2ヶ月後の10月に落成となったこの校舎は、見ることができなかったわけです。

この衝立も、いかにも年季が入っていますね。
毎年4月に新入生は 校友会の会長さんの【追手前高校の歴史学】の講演を聴き、この校長室も見学するのだそうです。

調度品も、いかにもどっしりとした昭和の重厚感があります。

追手前高校は大正11年、昭和天皇が皇太子時代にご視察にいらっしゃり、翌12年には梨本宮殿下と皇族の方々をお迎えする機会が何度かあったため、こうした貴賓室が作られたのかもしれません。小さな写真は校史資料室にあったもので2008年のコラムに書きましたが、「大正12年、梨本宮殿下」と添え書きがありました。(コラム第299回「歴史を感じた同窓会」より)

いかがでしたでしょうか?
追手前高校の近代建築の面影が今も強く残っているのは、大きな財産です。しかも現役の高校生達がそこで学んでいるって、本当に素晴らしいことです。
少しでも皆さまにも、こうした歴史をしのんで頂けましたら幸いです。

第865回 「高知追手前高校② 時計台の秘密」

8月23日

高知追手前高校と言えば、時計台!とすぐつながるくらい、有名なシンボルです。西洋建築の校舎に対し、時計台は日本の城郭風の屋根を載せた帝冠様式です。

でもその中に入ったことがある方は、限られていると思います。在学中は入りたくてもいつも鍵がかかっていて、一度も入れませんでした。先日、同窓会前の校内ツアーで見学させて頂いたので、今回はそれをご紹介しましょう。

この時計台は、ご覧の通り4層構造になっています。高さは屋上からでもかなり高く、17.5mあるそうです。3階建ての校舎の屋上までが12mで、合わせて30m近い高さになります。(左下に人が立っているのですが、比べてみて下さい)

ここはドアを開けて入った、言わば1階部分。昔置いてあった柱時計とか、昔の木の欄干の一部、写真などが陳列されています。

急勾配の鉄バシゴには少しひるみますが、ローヒールだから行けるはず!だってこの先、もう上がれることってないかもとチャレンジ。落ちたら大変なので、全身緊張します。

2階部分に着きました。ここは四方に窓があり、明るいですがガランとしています。ここから鉄バシゴは、ほぼ垂直になります。

3階部分は窓がなく、真っ暗です。この先、どうなってるんだっけ?数十年ぶりなので、すっかり忘れてちょっと不安。それに8月なので、中はサウナ状態。10人ほどが上がったのですが、ここでUターンしちゃう人も出て来ました。

でもさらに上がると、最上階に着きました!
かなり暗いのでピンボケですが、時計の文字盤がご覧のように四方に付いています。すごい機械室があるんじゃ、と期待なさった方、ごめんなさい。昔はわかりませんが昭和50年代には、すでにこの状態でした。

文字盤の大きさは、人と比較してこのくらいです。結構大きいでしょ?

北面には、時計の小さな装置と小さなドアがあります。ドアの高さは70cmほどでしょうか。まるで小人のドアのようです。そこをくぐると…

時計台の外に出ます。絶景です!風が気持ちいい。西には高知城が見えます。

北側です。絶景過ぎます。30mの高さがあるわけですから。
実はこの欄干は、高さが膝下くらいまでしかないので、立ったら危ないのです。落ちたら完全に自己責任の世界。

南側です。オーテピアのこの角度は、日頃は絶対に見られません。

そして下りるときは最後だったので、ドアを閉めると漆黒の闇の中、手探りで鉄バシゴを全身の感覚を使って下りました。当然、翌日はすごい筋肉痛に。(笑)

ちなみに下から見上げると、こんな感じです。私が左の方にいるのがわかりますか?文字盤の大きさは、130~150cmくらいありました。

でもよくご覧下さい、何か違っていませんか?
欄干の色とか。実はこの写真は…

昭和58年にNHKで私がニュースキャスターをしていた年、時の記念日に提案が通り、初めて念願の時計台に上がった時のものです。(やっぱり低いヒール履いてる)
その後平成16年(2004年)に耐震工事がされ、時計台の欄干も取り替えられたようです。

でもよくぞ写真を残していました、今となっては貴重です。と言うのも…

昭和58年当時の時計台の内部を写しているんです!ちょっとしたお宝写真かも。
よくご覧下さい。今と違って、階の間仕切りが2階も3階もなくて、4階の床がそのまま見えている状況です。上がるのはかなり怖かったけど、カメラが回っていると勇気が出たのを覚えています。(笑)鉄骨の色も違いますね。

いかがでしょうか?滅多に見られない時計台の内部、楽しんで頂けたら幸いです。
(すみませんが、写真は無断コピーはご遠慮くださいね)

第864回 「高知追手前高校① 近代建築」

8月16日

先日、高知県立高知追手前高校の同窓会があり、その前に校内見学ツアーが企画されていました。時計台が大好きな私はもちろん、参加したのでした。

追手前高校は、1931年(昭和6年)に建てられた近代建築です。帝冠様式と言い、西洋建築に日本の城郭風の屋根を載せた時計台を持つ建物で、平洋戦争も昭和の南海大地震もくぐり抜け、もう88年。いまだに高校生達を優しく包み込んでいます。

これはおなじみの時計台を、道路と反対の北側から見たところです。

実は調べてみて驚いたのは、この貴重な近代建築の写真が時計台以外ほとんどネットに載っていないことでした。通常は公開されていないからかもしれませんが、あまりにもったいない。ということで、クリックで大きくしてご覧下さいね。
(白黒の3枚の写真は「高知追手前高校百年史」より許可を頂き、掲載しました。)

追手前高校は、1878年(明治11年)に開校した「高知中学校」が前身で、幾度か名称を変え、1922年(大正11年)に「高知城東中学校」と改称。明治の頃から、時計台がそのシンボルでした。

現校舎は1931年(昭和6年)、旧木造校舎から新しい鉄筋コンクリート造りに建て直されました。卒業生の濱口雄幸(はまぐちおさち)氏が2年前の1929年(昭和4年)に内閣総理大臣になったので、現役総理へのお祝いの意味もあったことでしょう。

珍しい、建築中の写真が残されています。(前の追手筋の狭さにビックリ!)

設計監修は武田五一氏(京都帝国大学工学部教授、明治24年卒業生)。施工請負の「東京 間組」社長は小谷清氏(明治25年卒業生)。このほか現場監督や県庁担当者も追手前の出身者が携わっていたそうです。

設計当時はあまりに凝ったので高知県の予算と折り合わず、時計台不要論や市街地移転論まで噴出したそうです。結局、請負金(約28万円)に対し実費が34~35万円を要しましたが、当時は全国的に見ても、ベスト5に数えられる中学校だと言われたそうです。

結局、間組は6万円ほど(今の5億円くらいらしい)の赤字となりましたが、小谷社長は「名誉な仕事だから」と気概と母校愛を見せたとか。こうした工事関係者の多大な尽力と母校愛により、校舎は完成したそうです。このお話は、心にズンッと響きました。

さて、時計台の下、校門をくぐると玄関ファサード(建物の正面)が。

趣のある大理石作りの車寄せです。太い大理石の円柱、天井など、非常に凝ったデザインです。

玄関は、何種類もの大きな大理石で敷き詰められています。

この見事な大理石の柱。なんでも追手前の建物の石は、そのまま標本になるくらい貴重なものだと地学の先生から聞いたことがあります。

玄関ホールに入ったところ。上に吊されている時計は、偶然私たちの卒業時に贈ったものでした。

玄関の方を振り向くと、こんな感じです。

入って右手には、中央階段と、事務室などが続く廊下があります。

廊下はダークブラウンの腰板が美しく、非常に印象的です。
ちなみに廊下上部に通っているパイプは、私の在学中にはありませんでした。

こちらは今も現役の事務室受付。書体まで昔っぽくて、ますますノスタルジックです。

玄関ホールにある、中央階段。装飾された木の手すりは昔のままです。
もしかしたら「アンパンマン」の作者、やなせたかしさんも触れたかもしれません。

私たちの在学時は、段も味のある木造だったのですが、そりゃあ90年近くたってるんですから さすがに保たないですよね。

昨年(2018年)が学校創立140周年だったそうで、中央階段の1階から2階までは、記念ギャラリーになっていました。学校博物館ですね。これについては、またご紹介します。

2階のどっしりとした手洗い場も、相当年季が入っています。レトロな雰囲気が、在学時から好きでした。アーチ型の大きな枠は、昔は鏡がはめ込まれていたのでしょう。段状になっているんですよ。

この日はたまたま、よさこい祭りの最終日でした。グラウンドには沢山の踊り子さんがいて、すぐ前の追手筋競演場に移動していました。

まだまだご紹介したいものが多過ぎて、まとまりきれません。
追手前高校シリーズ、あと2~3回お付き合い頂ければと思います。