第909回 「ヘレン・ケラーとコミュニケーション」

6月27日

今回の新型コロナ騒動でソーシャルディスタンスが必要となり、コミュニケーションがとりにくくなったと、皆さん感じていらっしゃるでしょう。私も大学の講義がオンデマンドになったり、受講なさる皆さんがマスク着用で離れているためペアワークがし辛くなったりと、コミュニケーションの講座には逆風を感じています。

では、この制約下でどうコミュニケーションをとればいいのか?学生達に教えるのに、ふとヘレン・ケラーのことを思い出しました。「見えない、聞こえない、話せない」三重苦を背負ってしまったヘレンのコミュニケーションでの苦労はこんなもんじゃなかったはずだ、と。

医療系専門学校の学生たちに、ヘレンのことを初めて「医療コミュニケーション論」の授業で伝えてみました。「ヘレン・ケラーを知ってる人は?」と聞いてみると、なんと34人中5~6人しか手が上がりませんでした。え、たったこれだけ?これは伝えねば!と語るのに力が入りました。(笑)

ヘレン・ケラーは1880年、日本で言えば明治13年、アメリカ南部に生まれました。両親は名家の出で、家庭は裕福でした。
しかしヘレンは、わずか2歳の時に高熱に伴う髄膜炎にかかってしまいます。
一命は取り留めたものの、視力と聴力を失い、聞こえないので話すこともできなくなり、三重苦となってしまいました。

両親からしつけを受けることもできないため、わがままに育ってしまったようです。幼児期は食べ物の匂いを嗅ぎ、手づかみで人の食事も取って食べたり、気に入らないとかんしゃくを起こして暴れ回ったりするなど、マナーのかけらもない、動物的な行動しかできなかったそうです。

でも、ヘレンの立場に立つとどうでしょうか?「見えない、聞こえない、話せない」わけですから、闇と静寂に包まれ、本能だけが頼りだったのでしょう。
ヘレンは後にその頃のことをこう語っています。
「私は無の世界の住人だった。そこには過去も現在も未来もない。
感情や、理性的思考のかけらもない。昼も夜もない。存在するのは空白だけ。」

さて、ヘレンが6歳のとき、家庭教師として20歳のアニー・サリバンが派遣されました。サリバン先生自身、幼いころにはメガネで矯正しても視力が上がらない「弱視」でした。手術で視力を得た彼女は自分の経験を生かし、ヘレンに「しつけ」や「指文字」「言葉」など様々なことを根気よく教えました。

指文字というのは、アルファベットを指で表したものです。通常はその形を見て判読するのですが、ヘレンの場合は見えなかったため、サリバン先生は指文字を触らせて伝えようとしたのです。ヘレンの手に【人形】を握らせ、その名前【DOLL】を手のひらに綴りましたが、ヘレンには意味不明でした。2つの関連性がわからなかったからです。それでもこの「手遊び」をヘレンはすぐにマスターし、1ヶ月で30近い単語を覚えたそうです。

しかし最初、スプーンやナイフを使わそうとするサリバン先生にヘレンはかんしゃくを起こし全力で抵抗し、食事はまるで格闘のようでした。「奇跡の人」という舞台や映画は、ヘレンがサリバン先生によって、指文字を理解できるようになるまでを物語にしています。

1ヶ月以上たち、ある日サリバン先生は井戸にヘレンを連れて行き、井戸水をかけ、指で【WATER】とつづりました。物と指文字の関係性!初めて、ほとばしるようにヘレンは理解できました。
「すべての物に名前があり、そこから新たな考えが浮かぶ」ことを。

やがてヘレンは驚異的な学習能力で指文字や言葉を覚え、人とコミュニケーションをとることを獲得しました。二人は言葉という絆で結ばれ、ヘレンは孤立から解放され、いらだちが収まり、素直で明るい少女に生まれ変わりました。何より知識を学ぶことができるようになったのです。盲学校からろう学校に入学し、発声の勉強に励み、不明瞭ながら話せるようにもなりました。

20歳になったヘレンは現在のハーバード大学に入学。22歳で『わたしの生涯』を執筆し、新聞に連載します。29歳のときには社会党に入党し、婦人参政権運動や公民権運動など多くの政治的・人道的な運動に参加しました。最終的には、教育や社会福祉の活動家にまでなったのです。サリバン先生は約50年に渡りよき教師、よき友人としてヘレンを支えたのです。

ヘレンは言いました。
「私は神様がくれた多くのもののうち、見る力と聞く力、そのたった2つを失っただけなのです。」
「本当にやっかいな障害は、目が見えないことでも、耳が聞こえないことでもなく、両目が見えても真実を見ようとしない、両耳が聞こえても人の話を聞こうとしない、頑迷な心です。」

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すごいと思いませんか?ヘレンが孤独だった幼少期には、思考もなく本能しかなかったのが、指文字という言葉を覚え、物にはすべて名前があると言うことを理解してから、コミュニケーション、対話にも目覚めたのです。それによって知識を獲得し、人間として驚異的な成長をしていったわけです。人は社会的動物と言われます。つまり対話ができるって、人間を人間たらしめる、とても重要なものなんですね。

コロナ禍で、コミュニケーションが制約され、人々は不自由を感じてストレスが募っています。しかし、ヘレンのことを思えば、今の私たちはなんと自由に、多様なコミュニケーションがとれるのでしょう!

コロナ禍の今、足りないものを考えるのではなく、すでに持っているものをどう活用するのかが問われているのではないかと私は思うのです。

第908回 「オンデマンド授業とソーシャルディスタンス」

6月20日

コロナ禍も次の段階へ進み、「新しい生活様式」の中で、新たな取り組みも進んでいます。オンラインやオンデマンドでの研修も一気に増えてきました。

弊社では今年の大学での講義は、すべてオンデマンド授業になりました。教員の話す内容を映像と音声によってコンテンツ化し、学生は履修科目を一定期間内なら好きな時にネットで視聴して授業を受けられます。しかしなにぶん初めてで急遽始まったシステムのため、不慣れなこともたくさん。

先日は某大学で恒例のビジネスマナー講座を収録したのですが、後日、収録された映像を確認させて頂くと、名刺交換のロールプレイングの音声が数ヶ所聞き取れない所があり、急遽音声のみをボイスレコーダーで収録し直しました。いわゆるアフレコですね。映像の口の動きに合わせて録り直しましたが、やはり映像とのタイミングがすべてピッタリとはいかず、どうしても若干ズレができてしまいました。うーん、難しい。

でも良いこともあり、11回もの講義がたった1回の収録ですんだのは助かりました。ただ400名以上のレポートがいっぺんに返ってくるのではないかと思うと、…どうなるんでしょう?戦々恐々と「その日」を待っています。(笑)

オンライン研修も花盛りです。たとえばNLPの世界的な権威、ロバート・ディルツ博士の4日間(半日)の講座が破格の5万円で受講できるなど、考えられないお得さ!今まで東京への交通費・宿泊費などで数十万円かかっていた費用がゼロで、講座料も一ケタ安くなっているのは地方在住者にとっては本当に有り難いことです。なんだかんだ、7月はオンライン研修を8日間も受講予定です。(笑)

一方、ソーシャルディスタンスを確保して、対面授業が始まったところもあります。こちらでは、学生はマスク、教員はフェイスシールドを付けての授業でした。

フェイスシールドって息苦しくないかなあ?とか不安だったのですが、マスク以上に快適で特に不便なこともなく、ホッとしました。何よりもマスク越しでも、直接学生の皆さんの顔が見られる安心感といったら!!(笑)

新しいシステムが出てくると、それに合わせて工夫も必要になります。失敗も重ねながら新たな刺激を受けていますが、例年通りの学生の皆さんの素直な思いで一杯のレポートを直接手渡してもらえると、こちらもリフレッシュするのでした。

第907回 「 鍛錬<習慣 」

6月13日        中村 覚

 

先週、庭に植わっていた直径が30㎝程あるアオギの木を切りました。40年近く暮らしを共にしてきましたが、あまりに根が張り過ぎると、ちょうど庭の下にある掘り車庫にもよくないのではないかと思い、幹からバッサリ。ノコギリよりナタの方が早いかなと思い「カーンッ、カーンッ、カーンッ」と休憩を入れながら30分ぐらいで終わりました。いい汗をかきつつ庭もさっぱりして 良かった 良かった。

ところが次の日、右の首と肩がつっぱるように痛いのです。そうです、前日に何度となくナタをふるったからです。 休憩をいれながら30分程度のことでしたので、まさか次の日にこんな“おつり”がくるとは意外でした。“急に慣れないことはしてはいけない” そうかもしれませんが、それほどの無理はしていないはず…。 にも関わらず この体たらく。よしっ、これは鍛えなければ!

などと意気込んではみたものの、だいたい何事にも“熱しやすく冷めやすい”のです。「鍛錬」という言葉の響きも好きですが、よくよく考えると鍛錬している人を「スゴいなぁ」と側から見ているのが好き。こんな自分に気付いた時はビックリしました。

いや真面目な話、特定の目的でもない限り、日常生活を送るにあたって大事なのは鍛錬より習慣の方じゃないかと「無理の効かない体」を大前提にそう思うようになりました。

以前、聞いた話ですが、医大生が病院にインターンシップに行った時、スタッフの方同様に院内を移動する際には、原則 階段を使用してくださいと言われたそうです。一日に何度となく階段の上がり下りが始まります。たとえば6階など高い階への移動となると、日頃エレベーターに慣れてしまっている学生さんからすれば「…いや もちろん、やりますけど、ちょっと…(苦)」みたいな。 スタッフさんの方が年齢はずっと上なのに階段を上がる速度も速かったりするそうです。習慣のたまものですよね。

たまにお邪魔するお家があるのですが、「掃除が趣味ですか?」と言うぐらい、いつ行っても部屋がキレイです。もともと綺麗好きな人なんです。じゃあそうではない部屋に住んでいる人達が綺麗好きじゃないかと言えば、そんなことはありません!(笑)

自分の家が一番きれいになる時と言えば 年末の大掃除。一夜漬けの勉強よろしく短期間にギュッと凝縮して次から次へとあくせく動き回り、しまいには「なんでこんなにしんどい思いまでして~」と面白くありません。ただ大晦日には「まぁ なんとか80点ぐらいは取れたかな」とちょっとした自己満足感はあります。またすぐに散らかるんですけど。

すると家が言うんです。「ねぇねぇ 君達。束の間の80点よりも年間を通しての平均点をもうちょっと上げてくれる方が助かるんだけど。大掃除もいいけど日頃からのプチプチ掃除の方が楽で良いよ。よろしくね。」(笑)

最後に、実は自分が一番習慣化した方が良いと思っているのは、この文章を書くということです。月に1度、必ず書いていますが、いつも いつも いつも、ず~っと書くのに四苦八苦しています。代表の筒井は書くのが好きらしいんですが、私はそもそも違います。一度相談しました。

「筒井さん、書くことが本当にありません。」
「それは書くことがないんじゃなくて、書くことに慣れていないだけ。月に1回しか書いてないからよ、2回にしてあげようか?(笑)」

正論って、面白くないですよねー。(笑)