第935回 「2020年をふり返って」

12月26日

2020年。天災を除けば、今年ほど予測不可能だった年は記憶にありません。今年の初めは誰しも、東京オリンピックが開催され華やかな年になることを信じて疑っていなかったでしょう。それが、まさか…。

未来目線で言うなら、様々な分岐点となったのが2020年、ということになるのでしょうか。新型コロナウイルスが あっという間に世界中に広がり、活動自粛は世界経済の大打撃を呼び、多くの業界が「コロナ不況」に陥りました。もちろん、弊社もご多分に漏れません。

4月~6月の大学の講義はオンデマンドに切り替わり、企業研修は10月まで すべてキャンセルに。当然、史上最低の収益でした。このまま廃業するのも一つの選択肢か?という思いもかすめましたが…

医療系専門学校で、フェイスシールドを付けての授業再開ができたときの嬉しかったこと!やはりソーシャルディスタンスが必要とはいえ、人と向かい合い何かを伝える、この仕事が好きなことを改めて感じました。
またzoomの活用など、ビジネスの新たな可能性も広がりましたよね。

春の長い自粛期間には、Face book の『ブックカバーチャレンジ』を行い、7日間のバトンが同時に来たため倍の14日間 で好きな本を14冊ご紹介することに。(笑)それを選ぶのが意外に楽しくて、新たな再発見をした気分でした。

プライベートでは初孫を授かり、無事に育っているのが この上ない感謝です。
同時に、人間の自我が育っていくプロセスをすぐ近くで見ていて、心理学の面からも『どう感じているんだろう』『今の月齢ではこう表現するのか』など、我が子より客観的に見られる分、学びが尽きません。

コロナで仕事が激減し かなりの時間を次女のサポートに費やすことができたのも、私にとっては神様のお計らいかもしれません。

また、母校の追手前高校を尋ねて、改めてどれだけこの校舎に恋していたのかを思い出しました。そのご縁は、これからも続いていきそうな予感がします。

ふり返れば 社会全体が今年ほど、レジリエンスが問われた年もなかったでしょう。
それは2021年も続くでしょうが、変化に柔軟に対応し 生きる力を磨くよう、学びを止めずに歩こうと思います。皆さま、来年もどうぞよろしくお願い致します。
来週は年に一度のお休みとさせて頂きますが、どうか良いお年をお迎え下さいませ。

第934回 「追手前高校の戦災記」

12月19日

前回からの続きです。高知追手前高校の創立八十周年記念誌は、昭和34年に刊行された、158ページの小冊子です。

当時の窓は鉄枠だったようです。校舎南の植木も、まださほど大きくありません。
昭和34年といえば、昭和20年の終戦から14年経った頃です。

2020年の今に置き換えてみると、14年前の2006年(平成18年)には、荒川静香がトリノオリンピックで金メダルを取り、秋篠宮紀子妃殿下が悠仁さまをご出産なさり、第1次安倍内閣が発足した年でした。確かに一昔以上前ですが、14年前の出来事というのは、人々の記憶にしっかりとある印象でしょう。

高知市は昭和20年7月に大空襲を受け、一面焼け野原になりました。高知県庁も高知新聞社も焼けて、資料は焼失してしまったそうです。ちなみに調査中、昭和初期の高知県庁舎の写真を初めて見ましたが、こんなに美しい近代建築だったのかと驚きました。

その後、これに似せて建て替えられた庁舎が戦争で消失し、昭和37年に現在の県庁舎に建て変わったそうです。

さて、追手前高校も戦争で空襲を受けたのですが、当時追手前高校の校長先生を務められたのは、畑 久治先生(写真中央)という方です。

この畑校長先生の貴重な手記が記念誌に収められていますので、ご紹介いたします。原文はかなりの長文ですので、空襲を受けた日の部分を抜粋しています。読点(、)がなく読みにくいかもしれませんが 原文のまま掲載します。


土佐の龍門    畑 久治

「海中に龍門という所ありて大波しきりに立つ。諸の魚どもかの所を過ぎぬれば必ず龍となる。故に龍門と言う。(中略)創立八十周年を迎えた追手前高校こそ誠に過去に雄偉の人材の輩出した土佐の龍門であると思う。
(中略)

こえて昭和二十年三月のある日の未明 バリバリと機銃掃射の音に飛び起きた。「校長室が火事です」との報に駈けつけるとその当時満州から何箇師団かが土佐に移ってその司令部が学校にあてられ司令長官の部屋は貴賓室であった。そこへ射込まれた火をふいてくる銃弾がカーテンに移って天井や腰板を炎上したのを衛兵が発見して消したところであった。私の席は隣の職員室に移していたが私の座る席の横のガラスに穴が開いて銃弾が腰板を貫いてコンクリートに突き刺さっていた。昼なら危ないことであったと弾丸を記念にした。

七月四日の夜空襲警報発令でいつものように御真影を運動場東北角の防空壕に藤原教頭先生と宿直の大塚先生とで奉遷したがやがて警報解除になったので今夜も無事彼とまた校長室へ奉遷しようとして本館へ戻りかかると「爆音が聞こえます退避退避」と叫ぶ声を聞いて急いで壕に駆け込むと同時にバリバリドカンドカンと響いて壕が揺らぐ。来たぞと壕の扉を開けて外を眺めると記念館の時計台の文字盤がはや炎の間に見え隠れしているし、運動場は一面の火の海、本館東側の3階の教室の中が地獄の火炎のように渦巻いている。

その時はただ何くそっと言う気持ちがムラムラと起こって飛び出した。先生方は「危ない危ない」と止められたが火に酔うたわけか運動場を横切って本館に走り込んだ。スキー靴を履いているし鉄兜を被っており一面火の海に見えたのは油脂焼夷弾が破裂散乱してそれが燃えているだけの話で大した事は無い。翌朝朝礼台を見ると一間四方の板に五つ位焼けあとがついていた。運動場六千坪にこの割合で散乱して燃えるから火の海に見えたのも当然である。本館に火が入ったかと錯覚したのは向こうの第三小学校が一度に炎上してそれがガラス窓越しに見えたためだ。中に入ると深閑としており向こうのパチパチ燃える音だけだ。玄関に人が唸っておるので「どうしましたか」と聞くと「先生火傷した薬をくれ」と婆さんだ。小さい子を二人連れている。「今持ってくるから気を確かに」と励まして校長室へ走り薬箱を探すが見当たらぬ。かれこれして戻ってみるともういなかったので、火が校舎に入らぬようにと気づいて運動場側の窓を閉め始めた。幸い風は北から吹いているので前の近の第三小学校の火の粉が入らないので助かった。一、二階を閉めて三階とさらに屋上に出たら目口が開けられない吹き倒されそうな火の粉の烈風だ。時計台の陰に身を寄せて見渡すと全市は火の海、県庁舎の炎上する大きな火柱、その壮観はいくら金を積んでも見られない光景だ。その時ふと私の胸に浮かんだのは「これは日本を浄める業火だ」という思いで思わずただ「頑張れ頑張れ」と怒鳴った。そんな私の頭上をB29が鱶(フカ)のように白い腹を間近に見せてごうごうと泳いでいく。急いで爆弾が落ちた三階の教室へ駈けつけるとシャーシャーと水の音がして火は消えかかっている。これは屋上一面に毛細管の網のように水が通うていて火災の時に自動的に消火するように設計されていて爆弾が天井を突き破ったので水が全部放出されて火を食い止めたことが後でわかった。さすが龍門の構造は違うと感心した。

前日虫の知らせか手押しポンプをプールの東側にいざと言う時に間に合うように出しておいたので駈けつけると体育館銃器室が燃えて火の流れが小使い室から生徒昇降口へ吹き込んでいる。これを食い止めぬと本館が火になると思うがどうにもならぬ。先生方を呼んだが御真影の奉護で出てこない。ウロウロしていると防空班の五年生吉井君が最先に駈けつけてくれた。吉井君は相撲部の選手、エイエイと押してくれるので筒先をチョロチョロ燃え出した入り口の鴨居に放水するが水は細く火勢は強いので焦っているうちに自動車ポンプが北の裏門から入ってきてやっと食い止めてくれた。講堂へ廻ると中が盛んに燃えている。焼夷大爆弾が二発落ちて破裂したためいかんともしがたい。ポンプの水が漏れているピアノ線に当たるとジャンジャンと鳴る悲しい響きを想い出す。体育館には五日に疎開するため問題の大壁画を始め歯科の医療機械など山積してあったが皆灰になってしまった。

やがてB29が去ったので公舎に戻ってみると焼けていない。家内と次女だけがおるので他の四人の子はどうしたかと聞くと一緒に久万へ逃げようとしたが人の波にもまれて別れ、二人は先生方に呼ばれて学校の防空壕にいたと言う。夜が明けてから四人は久万から幸い怪我もせずに帰って来た。
栗原知事はじめ県の幹部は学校に集まって今後の応急処置の協議だ。学校は今度は兵隊の代わりに県庁舎に代用されることになった。

戦災の翌日校庭で朝礼をして職員生徒の安否を調べてみると一年生一人死亡の犠牲であった。運動場を斜めに爆弾の落ちた大穴が五つあいて樹木は焼けて丸坊主だ。荒涼たる市内に南国の太陽は平和にさんさんとして降り注いでおるのに戦いはいよいよ激しくなり山の方へ生徒を疎開させる日が続いた。…
(後略)

※文中に「記念館の時計台の文字盤がはや炎の間に見え隠れしている」とある時計台とは、当時敷地東北の校友会記念会館に移築された 旧校舎の時計台のことです。

つまり追手前高校は、昭和6年から20年まで、時計台が2つあったのですね。なお、創立八十周年記念誌の編集後記(抜粋)も載せておきます。

編集後記より
昭和20年7月高知市戦災により、県立図書館、高知新聞社等が全壊したため八十周年記念号の資料収集に甚だ苦労し、本校創立五十周年記念号も本校保存の一冊と校友会顧問乾先生蔵書中の一冊とを根幹として、改築記念号・プール記念号その他諸記録によってようやくまとめることができた。
(後略)    昭和三十四年八月二十五日発行

第933回 「追手前高校 資料 2020」

12月12日

新型コロナに始まりコロナに暮れる2020年ですが、先日、母校である追手前高校へ出かけました。仕事が一区切りし、宿題である追手前高校の古い資料に取り組みたかったからです。

昨年の夏、このコラムで4回に渡って追手前高校を紹介したシリーズがお陰さまで好評で、また続編をというお言葉も頂き、改めて取材に訪れたのです。
私は校舎建築が大好きなので、往事の資料などを見てみたくて。
校友会事務局長の井上先生にお願いし、古い資料を見せて頂きました。

昨年来たときには本館1階の校友会校史資料室にあった明治期からの古い資料は、新館4階に引っ越していました。今後の南海大地震の浸水対策です。「日頃は多忙でなかなかできないことが、今年はコロナ休みの期間にできました」と井上先生。

コロナ休校の間、クラブ活動はOKの時期があり、テニス部が運んで美術部が資料を分類してくれたそうです。貴重な財産を守って下さり、ありがとう!後輩の皆さん。

明治期からの資料は膨大なので、「学校資料集」として目録が作られています。第一集から第五集ですが、第二集は上・中・下に分かれています。年報、学校日誌・教務日誌、教員任免一覧、戦後学制改革関係書類など、往事の貴重なものばかり。これらを守ってこられたことがすごいし、膨大な記録を整理し目録を作られた かつての校友会の先生にも頭が下がります。

新体育館1階にも、校史資料室があります。だから資料は現在、本館・新館・こちらと3つに分散されているのですね。保管のため24時間空調をしている関係で、ちょっと開きにくくなっているドア。

こちらも、様々な歴史的資料の宝庫です。

昭和天皇が皇太子時代、大正11年にご来校なさった時のお写真。後ろの幕に当時の追手前高校の校章「六棱星」が描かれていますし、その時の「お手植えの松」は今も中庭に残っています。こうしたこともあり、建築時に貴賓室がつくられたのでしょう。

当時の校舎設計図。「城東中学校校舎設計図 昭和5年」と片隅に記載されています。ご覧のように、大きなものです。

校友の先輩でいらっしゃる、やなせたかし先生のアンパンマンが右端に。偉大な先輩 浜口雄幸元首相からアンパンマンまでと、幅広い展示です。

様々な資料の中でも、私が特に関心を引かれたのは記念誌です。

創立五十周年記念号と、創立八十周年記念誌。現存している最も古い記念誌が、五十周年記念号で、なんと、昭和3年のものです。現存している五十周年記念号は2冊だけ。

現校舎が落成したのは昭和6年なのでそれについての記述はなく、創立記念式と回想録、大正時代の浜口雄幸(当時は大蔵大臣)の講演録など、300ページ以上ある冊子です。
ちなみに「2588」とある年号が目くらましになっていますが、これは皇紀なんです。神武天皇即位の年を元年と定めた日本の紀元で、2588年は昭和3年にあたります。

その後は戦争を挟んでいたため、五十周年の次に記念誌が発刊されたのが創立八十周年記念号で、昭和34年に刊行されています。偶然にも私と同い年!(笑)

これは私が個人所有している、追手前高校記念誌の数々です。我ながら、追手前LOVEですね。(笑)八十周年記念誌からは九十周年、百周年と十年ごとに刊行され、百四十周年誌まで出ています。現在が創立142年なので、あと8年で150周年の大きな節目なんです。

創立八十周年記念誌には、戦争中、B29に校舎が空爆に遭った壮絶な校長先生の体験談が記されています。なかなか読めない貴重な資料ですが許可を頂けたので、来週、記載することにします。