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ウィークリーN

第119回●2005年2月27日(日)

足跡16 「交流学習と自尊感情」




 若草養護学校では、1年に何回か普通校との交流学習がある。
地元の小学校はもちろん、高等部になると隣の市などとも交流がある。普通校の子供達とのふれあいもまた普段とは違う雰囲気で、いいものらしい。

 私がいまだに忘れられないエピソード。
地元の小学校と1年生同士の交流があった時だったと思う。楽しく一緒に遊び、交流を終えた地元小学校の男の子が家に帰り、早速その晩、お父さんに報告した。

「ねえねえ今日、若草の子供らぁと遊んだで!」
「そうか。どうだった?」
男の子はとても興奮した様子で、
「若草の子らぁ、すごいで!みんなぁ、車に乗っちょった!!」

 この感想を聞いた時には、吹き出したものだ。いかにも低学年の男の子らしく、「自分の車に乗っている」ことがすごい、いいなぁ〜という、素直な驚きが現れている。子供って、いいなあーと思う瞬間である。

 これが大きくなるにつれ、「障害は大変なんだ」と徐々に考え方が変わっていくが、子供の頃に障害児と共に遊び、「楽しかった。また遊ぼう」と言ってくれる子供達は、心の中にバリアが築かれにくいようにも思う。それが本当の意味でのバリアフリー社会につながるのではないだろうか。

 しかし、残念なことに一方でこういう現実もある。小学校・中学校と地元の学校に行っていた障害児が、子供同士のイジメによりやむなく転校してくるパターンである。保育園の頃から一緒だった友達に、ずっとイジメを受け続けていたことを中学校で初めて知ったお母さんもいた。「ずっと仲良しだと思っていたのに!…なんでもっと早く気付いてやれなかったんだろう」と後悔なさっていた。

 そういう疎外感を受けた子が、若草に来て「初めて友達ができた」と言い、元気を取り戻す。それまではできないことが多く自信喪失していたのが、養護学校に来て逆に「これできるよね、お願いね」と頼られることにより、実は沢山自分にもできることがあったのだと気づき、自信を取り戻す。自尊感情は人間が成長していく上で、とても大切なものだ。それには自分を可哀想、と思わないこと。同様に、家族も障害児を可哀想、と思わないことが大切ではないだろうか。

 可哀想、と言うのは、無意識に自分を相手より優位に立たせていることではないか。障害の長女に「可哀想に」とおっしゃる方がいるが、正直これもかなり抵抗がある。だって、長女は見ててちっとも可哀想じゃないのだ。そりゃあ確かに手足が不自由なのは不便なことが多いが、不便と不幸は違う。このあたり、乙武君の「五体不満足」を読んだ時には大いに賛同した部分だった。

 インドのマザー・テレサが来日なさった時、「世界には2つの貧困がある。インドのような物質的貧困と、日本のような精神的貧困だ」とおっしゃったそうだ。まさに、ここである。不便だったとしても、豊かな心があれば、ちっとも不幸ではない。幸せかどうかは他人が決めることではなく、自分が感じることだ。

 ちなみに我が子に「あなたは今幸せ?」と聞いてみた。長女も次女も「うん」と答えた。「どうして?」と聞くと18歳の長女は「周りのみんなに支えられているから。」15歳の次女は「生きてるだけで幸せなんじゃないの。」なるほどー。

  「じゃあ、神様が、なんでも1つだけ願いを叶えてあげると言いました。何をお願いする?」
長女はすごく長い間熟考し、出した答えは「ない。」えー何もないの?もったいない!
「友達を作りたいけど、それは自分でもできるから。」
 次女は「次も人間で生まれてくること。」 なんで?「だって、豚とか可愛いのに肉にされちゃうから可哀想だもん…」(出た!可哀想。でもまあ、これは相手が動物なので適切か。)
 それぞれ違っていて、 面白い。さすがB型家族である。 

 

   
 
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