第757回 「追悼 日野原重明先生」

7月22日

先週末は、LABプロファイルの勉強に東京出張していました。
旅先の朝のテレビで聞いた訃報…、日野原重明先生が105歳で人生をご卒業なさったと。ああ、ついにこの日が来てしまった、と思いました。今回は予定を変更して、日野原先生を偲びたいと思います。

明治生まれの105歳でも現役の医師であったこと。第2次世界大戦中の東京大空襲では、被災者の治療に携わったこと。よど号ハイジャック事件に人質として巻き込まれ4日間も拘束されて、助かった時は「残る人生は、神様から与えられたもの」と生き方が変わったこと。地下鉄サリン事件では聖路加国際病院の院長としてみずから陣頭指揮をとり、外来診察を中止し病院に運び込まれた640人の被害者の治療に当たったこと。予防医療の普及に尽力され、日本の長寿に大きく貢献した人間ドックを考案し、「成人病」を「生活習慣病」と改名したこと。自立し社会に貢献する「新老人」を提唱し、新しい生き方を実践なさったこと。人生についての提言を続け、90歳を過ぎての著書「生きかた上手」はベストセラーとなったこと…。

すべてがあまりにも大きな功績で、とても書ききれるものではありません。

2003年、先生が92歳の時に来高され、講演を拝聴して感銘を受けたことから私はファンになりました。当時、コラムにもそのことを書いたものです。今は750回を超えるウイークリーNの第48回「日野原重明先生のお誕生日に」です。

その少し前、2002年から朝日新聞でコラム「91歳私の証 あるがまゝ行く」を始められ、「105歳私の証 あるがまゝ行く」となった現在まで14年間、連載を続けてこられました。週に一度、どれだけ学ばせて頂き、楽しませて頂いたことでしょう!日頃から「命ある限りこのエッセーを続けます」と公言なさり、「最後のごあいさつ」と題した最終回の予定稿など数本の原稿を書きためていらしたとか。まさに「気骨の明治生まれ」でいらしたのですね。

日野原先生のことはあちこちで取り上げられていますが、今回、私が初めて知ったことも沢山ありました。今さら?と言われそうですが…
・聖路加国際病院は「せいろか」ではなく「せいるか」と読むこと。
・血圧測定が医療行為とみなされ、家庭で血圧を測ることができなかった当時、
厚生省と交渉し血圧測定を認めさせたこと。
・国内で初めての独立型のホスピス専門の病院を設立するなど、日本における
終末期医療の確立に尽力されたこと。
・看護教育にも尽力され、教科書もたくさん執筆されたこと。

その他、聖路加国際病院は日野原先生の発案で、大災害の発生を見据えた備えがあるそうです。廊下や待合室などの壁面に酸素の配管が2千本近く張り巡らされ、阪神大震災の時の水不足を念頭に置き、建物の下に 20メートルのプールを造ったとか。2人部屋を主とした病棟を作り、外来の廊下も緊急時にベッドが置けるほどの広さにしてあるそうです。日野原先生が生涯に何度も戦争やテロなどを体験なさったことが、たくさん活かされているわけです。

千人を超える負傷者を助けられなかったご自身の辛い戦争体験から、日本の憲法を「いのちの泉のようなもの」と表現なさっていました。「いのちを守るということについて、これほどしっかりとつくられた憲法は世の中のどこにもありません。」と「十代のきみたちへ: ─ぜひ読んでほしい憲法の本」など、沢山の著作から若者たちに平和への思いを託されています。

すべてにおいて、すごい生き方です。人は105歳まで現役で活躍し、影響を与えられるのだと身をもって示して下さった方です。そんな先生の「生き方上手」を少しでも見習えるように頑張ろう!と改めて思いました。

日野原先生、一世紀を超える間、本当にお疲れさまでいらっしゃいました。
どうぞ安らかにお眠り下さいますように。