第960回 「安田町の名建築②~旧柏原邸・前編」

6月26日

前回に引き続き、「安田町まちなみ交流館 和(なごみ)」、見事な日本建築の旧柏原邸をご紹介しましょう。こちらの女性職員さんが質問にも時間をかけて丁寧にご説明下さり、そのおもてなしの心にも打たれました。

旧市川医院の初代の市川先生が 当時の柏原少年を見込んで岡山の医大進学を援助し、医師になった柏原氏を娘婿としてお迎えになったとの経緯を伺い、見も知らぬ市川先生に親近感を覚えました。道理で旧市川医院と旧柏原邸がつながっているわけです。

旧柏原邸は平屋造りで、8室あります。壁は石組みの上に土佐漆喰の土塀が17mにわたって伸び、建物は水切り瓦も使われている立派なものです。

表門にはケヤキの1枚板を使い、昭和7年の建築当時には「表門だけで家1軒が建つ」と言われたとか。(写真をクリックしてご覧下さい)

棟飾りの鶴。安田町には土佐鶴の酒蔵があり、同じような鶴の飾りがあるようです。

土塀の上の瓦。土佐湾の波か、安田川の水の意匠でしょうか。

表門をくぐると、庭から和室が見えます。

北側の庭から、開け放った和室越しに南の庭が望めます。
こうした光景を見ると 日本家屋の開放性が、夏の心象風景に思えます。

市川医院と柏原邸の間は、こんな風に土間になっています。
この通路の向こうは、市川家の本宅に続いているそうです。

さて、柏原邸の玄関をくぐりましょう。

天井は、最も格式の高い様式の格(ごう)天井で、高知城にも使われています。ケヤキの角材の木目を、タテヨコに使っているのがわかります。

玄関障子の向こうには、小さな和室と床の間があります。
釣り床という形式だそうで、床柱が切断されているのが珍しいですね。
「奥の庭がよく見えるように切られたのでは」ということでしたが、今はお客さまが頭をぶつけると危ないので「頭上注意」の紙が貼ってあります。

さて、玄関横の和室①は、住み込みの看護婦さん用に作られました。

天井が低いのは押し入れに階段があり、2階の屋根裏部屋に続いているからで、ここだけが2階がある造りです。

看護婦は中廊下から市川医院にそのまま行けるような構造で、柏原家の家族と分離されています。このように中廊下を挟んで南北に居室を分ける形式は、明治末期から大正にかけてあった建築様式だそうです。

和室②③④⑤は長くなりますので、次回にご紹介します。

和室⑥と⑦は建築当初から隠居部屋として続き間で作られました。
和室⑥は床の間や床脇、神棚、濡れ縁などがあります。落とし掛け(床の間の上にかけ渡した横木)は細身の丸太で、銘木が使われています。

和室⑦は押し入れと内縁のみとシンプルです。
⑥と⑦の間には鯉の欄間がありました。柏原邸の欄間は数多くあり見事ですので、それも次回にご紹介しましょう。

最初は2回くらいでコラムにできればと思ったのですが、
あまりに見所が多すぎてご紹介しきれず、どこを削るか四苦八苦で3回になりました。(笑)
この建物は、安田町の宝だなとつくづく感じています。

第959回 「安田町の名建築①~旧市川医院」

6月19日

先日、県東部での仕事帰りに中村が「ここ通ってみましょうか」と言って、安田町の国道から一本北にある通りの近代和風建築を見せてくれました。
一目見て「これはいい!取材に来よう!」と即決。
それが、「安田町まちなみ交流館 和(なごみ)」です。

実はこちら、旧柏原邸・旧市川医院という2つの建物がつながっている、大変珍しく貴重な和洋折衷建築なんです。旧市川医院は大正2年、旧柏原邸は昭和7年に建築されました。当時豊富にあった馬路村魚梁瀬の天然木をふんだんに使った見事な建築です。

時代が変わり20年近く空き家で傷みが著しくなったこともあり、平成20年には所有の方から安田町に寄贈されました。平成22年(2010年)に修復が完了し、安田まちなみ交流館「和」として生まれ変わりました。もう10年以上になるのに、全然知りませんでした。平成24年には、国の登録有形文化財にもなっている名建築です。

では、市川家と柏原家の関係は?
初代の市川先生の娘婿が、柏原さんなのだそうです。だから建物もつながっているんですね。

まずは左側にある旧市川医院。大正の面影が感じられる、たたずまいです。
南北に細長い構造になっている平屋の洋館で、外壁はガラス窓に板張り。
庭木の後ろの屋根は正面のみ寄棟造で、後ろは切妻造です。
(写真はクリックで大きくなります)

何と言っても、この玄関が大正時代を彷彿とさせます。
急勾配の屋根は、先の尖った棟飾りがシンボリックです。

それと対照的な、下を向いた木の飾りもおしゃれな感じです。

上部の小さな窓と、レトロな灯りがいいですねえ。

さて、玄関から中へ入ると、片廊下式になっています。

修復前の見取り図では、玄関から順に調剤室、レントゲン室、診察室、処置室と並んでいました。現在は資料展示室として、企画展などが開かれています。
手前の部屋は現在、事務室として使われています。

旧仮名遣いの「投薬口」は、その名残です。
画面を大きくすると、大正ガラスを使っているため、景色が歪んで見えるのがわかります。

ここは昔、レントゲン室だった部屋です。
照明も大正レトロ。天井の桟からチェーンで吊されています。

引き戸も当時の物を磨いて使っているようです。下のレールも木製ですが、スムーズ。
しっかりとした造りなので、今でも使えるのでしょうね。

こちらは診察室と処置室。壁に大きな型板ガラスが埋めこまれて、
当時は明るくモダンな雰囲気だったのでしょうね。

大正2年の地方の医院建築が 令和の今も安田町の方々のご尽力で残り、
内部も見学できるよう整えられているのが感無量でした。

次回は、豪奢な和風建築の旧柏原邸をご紹介致します。

第871回 「同志社大学は、近代建築のドリームランド」

10月5日

前回書きましたが、京都の会合に行った際、たまたまホテルに近かった同志社大学に近代建築があると知り、行って来ました。ちょうど連休中だったのでほとんど人影もないキャパスで、素晴らしい建築を堪能させて頂きました。

同志社は、明治8年(1875)新島襄によって英学校が創立され、その後大学に発展しました。京都の中心である京都御所の北側に位置します。京都は戦火を免れたため近代建築が多く残っていますが、とりわけここには国の指定重要文化財が沢山あり、まるで近代建築のドリームランドのようでした。

同志社大学では、建築に独自の名前が付いています。校門近くのこちらは、彰栄館。時計台のある建物で、国の指定重要文化財です。

京都市内でも現存する最古の煉瓦建築だそうで、明治17年(1884)、ダニエル・クロスビー・グリーンによる設計です。グリーンは宣教師として来日し、明治15年から同志社に赴任して建築に携わった建築家です。

緑が映え、135年もたつようには見えない美しさに見惚れます。現在は庶務課として使われているようです。

その東側には、同じく国の重要文化財の礼拝堂(チャペル)があります。彰栄館と同じ、グリーンの設計により明治19年(1886)に建築されたものです。残念ながら、どちらの建物も中には入れませんでした。

こちらはその東側にあるハリス理化学館。国の重要文化財です。A.Hハンセルの設計で、明治23年(1890)に、アメリカの実業家 J.N.ハリス氏からの寄付により建てられたものです。現在は同志社ギャラリーになっており、無料で見学できます。

ハリス氏は新島襄の理化学教育に対する熱意に賛同し、同志社へ当時10万ドルを寄付。その一部がハリス理化学館建設にあてられ、理化学の教室となりました。当時は、教育だけでなく外へ向けた研究施設でもあったそうです。

建物正面の入り口の上にある文字盤には「18  SCIENSE  89」と刻まれ、

建物の基礎にも「明治二十二年 A.C.1889」と刻まれています。(ギャラリーの年表とは1年違いますが、定礎が作られた時期と竣工で違うのかもしれませんね。)

1階は同志社の歴史などの常設展があり、2階では企画展が行われていました。

中央階段。黒光りする木製の階段と手すりの曲線が美しく、どっしりとした存在感を放っています。

当初は八角形の天文台もあったそうですが、明治24年の濃尾大地震により安全性が危ぶまれ、明治26年に撤去されたとか。現在はらせん階段だけが残されています。

こちらはクラーク記念館。同じく、国の重要文化財です。アメリカの資産家B.W.クラーク夫妻が、27歳でこの世を去った息子のためにと、寄付により建てられました。

明治27年(1894)に開館、設計はリヒャルド・ゼール。ドイツの建築家なので、建物はドイツ風のネオ・ゴシック・スタイルです。

ダークブラウンの尖塔が印象的ですね。

当初は神学教育と研究のための「クラーク神学館」でしたが、新しい神学館の完成により、今の「クラーク記念館」となりました。残念ながら、こちらも見学はできませんでした。

ガッシリとしているけれど、美しい。張り出し窓の陰影が印象的です。

同志社大学の近代建築はまだいくつもありますし、お隣の同志社女子大学にもあるので、ご興味のある方は近くに行った折に見学なさってはいかがでしょうか?

こんな素晴らしい環境で学べている学生さんたちは、幸せですねぇ。