第871回 「同志社大学は、近代建築のドリームランド」

10月5日

前回書きましたが、京都の会合に行った際、たまたまホテルに近かった同志社大学に近代建築があると知り、行って来ました。ちょうど連休中だったのでほとんど人影もないキャパスで、素晴らしい建築を堪能させて頂きました。

同志社は、明治8年(1875)新島襄によって英学校が創立され、その後大学に発展しました。京都の中心である京都御所の北側に位置します。京都は戦火を免れたため近代建築が多く残っていますが、とりわけここには国の指定重要文化財が沢山あり、まるで近代建築のドリームランドのようでした。

同志社大学では、建築に独自の名前が付いています。校門近くのこちらは、彰栄館。時計台のある建物で、国の指定重要文化財です。

京都市内でも現存する最古の煉瓦建築だそうで、明治17年(1884)、ダニエル・クロスビー・グリーンによる設計です。グリーンは宣教師として来日し、明治15年から同志社に赴任して建築に携わった建築家です。

緑が映え、135年もたつようには見えない美しさに見惚れます。現在は庶務課として使われているようです。

その東側には、同じく国の重要文化財の礼拝堂(チャペル)があります。彰栄館と同じ、グリーンの設計により明治19年(1886)に建築されたものです。残念ながら、どちらの建物も中には入れませんでした。

こちらはその東側にあるハリス理化学館。国の重要文化財です。A.Hハンセルの設計で、明治23年(1890)に、アメリカの実業家 J.N.ハリス氏からの寄付により建てられたものです。現在は同志社ギャラリーになっており、無料で見学できます。

ハリス氏は新島襄の理化学教育に対する熱意に賛同し、同志社へ当時10万ドルを寄付。その一部がハリス理化学館建設にあてられ、理化学の教室となりました。当時は、教育だけでなく外へ向けた研究施設でもあったそうです。

建物正面の入り口の上にある文字盤には「18  SCIENSE  89」と刻まれ、

建物の基礎にも「明治二十二年 A.C.1889」と刻まれています。(ギャラリーの年表とは1年違いますが、定礎が作られた時期と竣工で違うのかもしれませんね。)

1階は同志社の歴史などの常設展があり、2階では企画展が行われていました。

中央階段。黒光りする木製の階段と手すりの曲線が美しく、どっしりとした存在感を放っています。

当初は八角形の天文台もあったそうですが、明治24年の濃尾大地震により安全性が危ぶまれ、明治26年に撤去されたとか。現在はらせん階段だけが残されています。

こちらはクラーク記念館。同じく、国の重要文化財です。アメリカの資産家B.W.クラーク夫妻が、27歳でこの世を去った息子のためにと、寄付により建てられました。

明治27年(1894)に開館、設計はリヒャルド・ゼール。ドイツの建築家なので、建物はドイツ風のネオ・ゴシック・スタイルです。

ダークブラウンの尖塔が印象的ですね。

当初は神学教育と研究のための「クラーク神学館」でしたが、新しい神学館の完成により、今の「クラーク記念館」となりました。残念ながら、こちらも見学はできませんでした。

ガッシリとしているけれど、美しい。張り出し窓の陰影が印象的です。

同志社大学の近代建築はまだいくつもありますし、お隣の同志社女子大学にもあるので、ご興味のある方は近くに行った折に見学なさってはいかがでしょうか?

こんな素晴らしい環境で学べている学生さんたちは、幸せですねぇ。

第867回 「高知追手前高校④ 追手前博物館」

9月5日

近代建築、時計台、元貴賓室と続いた追手前高校シリーズ。
最終回は、追手前高校の多くの貴重な史料などをご紹介します。

追手前高校は昨年(2018年)、学校創立140周年を迎えました。

その記念に校舎中央階段に、学校所有の貴重な資料などが約80点公開展示されています。「創立以来代々守り継がれてきた歴史的学校資料に触れ、過去に思いをはせ誇りに思い、未来への力に変えて欲しい」として校友会が企画した、学校博物館です。

「ようこそ創立140周年の歴史空間へ」としてメッセージが掲げられたその上には、旧講堂の照明と旧校旗の「六稜星(りくりょうせい)」のレリーフが。六角の星ですね。昭和6年(1931)頃のものです。

明治期からの集合写真や校舎の図面、本などがたくさん並べられています。面白いのは、写真の額縁は古い引き出しをリユースしていること。いい味を出しています。

これは、国内で最も古いと言われる校旗の現物です。明治20年に作られたもので、六稜星の中央の星形は、金糸で刺繍されています。「生徒たちが高い理想を持って広く世界に羽ばたくこと、天下一の理想を目指す」との思いが込められていたとか。

現在の校章(右)になったのは、昭和24年(1949)です。高知県立高知追手前高等学校に改称されたことから校章のデザインコンクールが行われ、追手前のシンボルのイチョウの葉6枚に置き換えて「高」の字を配した生徒の案が採用されました。

これは明治22年(1889)の歴史の試験問題です。なんと英語で出題され、筆書きの英語の筆記体の質問が並んでいます。当時は印刷技術もなかった上に、英語で原書を使った授業が行われていたのでしょう。歴史なのに英語で読み書きができないと試験に合格できないなんて、ハイレベル過ぎ。ビックリです。

この他、直木賞作家の田岡典夫が書いた、文芸部からの手紙への返信(昭和52年・1977)や代表作の直筆原稿、物理学者寺田寅彦の明治期の在学時の写真など、貴重な史料が間近に見られます。幸せだなあ、今の生徒さんたち。

本館の校史資料室にて。100期の卒業生でもある美術の井上香二先生は、校友会の事務局として精力的に活動なさっています。手にしているのは、やはり英語で書かれた明治期の試験問題。「これを今の生徒たちに見せてあげたい」という思いが、学校博物館につながったそうです。

校友会には、明治期からの貴重な書類が沢山残っています。明治時代の学校規則、日直日誌、試験成績表から大正時代の教務日誌、昭和の宿直日誌など。卒業アルバムも多くありました。

学校博物館のある中央階段を2階へ上ると、大きな手洗い場があります。

実はここにひっそりと追手前のマークが刻印されている物があるのです。
それは…

流しの排水口のフタに、小さく時計台の刻印が!(大きくしてご覧下さい)
大きさは、1cmもないと思いますし、もうすり切れて見えない物もありますが、
なんだか「隠れミッキー」を見つけたような気分♪

こちらは新体育館にできた、新たな校史資料室です。

「中浜万次郎漂流記」や「ズーフ・ハルマ」などの貴重な資料があって驚きました。「ズーフ・ハルマ」は江戸時代後期に編纂された、オランダ語の和訳辞典です。全12巻の内2巻が紛失したらしいですが、そろっていれば1億円は下らないとか。現物は現在、龍馬歴史館に保管してもらっているそうです。

そして本館屋上の東の端にポツンとあるこの建物、何かわかりますか?
柱は大理石、上は砂岩のレンガで作られています。

奉安殿(ほうあんでん)と言い、戦前の日本で天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語などが納められていた建物です。多くは敗戦後に撤去されたらしく、私は在校時にはまったく気づきませんでした。

当初は2階に作る計画だったそうですが、校舎は3階建てのため「その上を人が通ることはまかりならん」ということで、屋上に設置されたと伺いました。

当時は登下校時や単に前を通過する際にも服装を正してから最敬礼するように決められていたそうで、空襲や火災の時には御真影を守ろうとして、校長などが殉職したこともあったそうです。

敗戦時、GHQの指導で、美術教員がノミで菊のご紋を削ったのだそうです。その痕跡が見られました。

扉は金庫のようなダイヤルが両側に付いていたようです。
現在は空っぽですが、当時はこの中に…

この金庫が鎮座していたようです。この中にご真影や教育勅語を保管していたのでしょう。扉の上部両側には、六稜星が付いています。この六稜星はあちこちにモチーフとして使われていたのですね。

勾玉の覆いをずらすと、鍵穴がのぞきます。
本当に凝った造りですね。

私が卒業生だということを割り引いても、細部まで凝りに凝った追手前の校舎建築は文化財だとつくづく感じ、ご紹介させて頂きました。長文をお読み下さり、ありがとうございました。

第866回 「高知追手前高校③ 元貴賓室と弾痕」

8月31日

高知追手前高校シリーズ、3回目は、時計台以上に伝説の部屋。
往時が偲ばれる元貴賓室、現在の校長室をご紹介します。

校長室は、2008年に講演会で伺って以来、二度目です。
今回 校舎の写真を撮るうちに、どうしても伝説の「元貴賓室」をネットに残したくなり、現在の藤中校長先生にお願いし、ご厚意で撮影させて頂けることになりました。
本当に感謝です。ああ、卒業生で良かった!(笑)

(ちなみに写真の扉の下部が濡れているのは雨ではなく、昔のワックスの油分が染み込んでいるとのこと)

木の扉をくぐると、そこには…

数々の歴史が刻まれた、追手前高校の最も神秘的なスペースが。
これが、噂の元貴賓室のたたずまいです。

クラシカルな木枠の高い窓、往時を思わせるひだカーテン、天井部の端のモールディング(縁どり)。ぜひ、クリックしてご覧下さい。

この扉は、隣の事務室へ繋がっています。実は建築当時は、現在の事務室が校長室だったというお話を伺いました。そのため、事務室にも天井近くにモールディングが施されています。

そして、この北側の窓枠の右下に、まさに歴史が刻まれているのです。

「弾痕 1945年」とあります。
昭和20年7月4日、高知市は大空襲を受け、追手前高も講堂などが焼失しました。その時、この貴賓室にもグラマン爆撃機の機銃掃射の銃弾が飛び込んだのです。

爆弾は東側三階教室の天井も突き破り盛んに燃え始めましたが、校舎の屋上一面に毛細管のように水が通っていて、自動的に火災を消し止めた(!)とか。昭和6年当時に、スプリンクラーも設置されていたそうです。爆弾が貫通した部屋は長く進路指導室で貫通痕もあったそうですが、現在は修繕して教室として使われていると伺いました。

墨で、弾痕を囲ってあります。奥には銃弾がそのまま残っているのでしょうか。
後ろの壁は耐震補強をして新しくなっていますが、窓枠は当時のままの物が今も残されています。かつては校舎の南壁や時計台にも弾痕が残っていたそうですが、現在も残っているのはこれだけです。

シャンデリアも、昔の物のようです。近代建築のホテルを思わせる、まさにクラシカルな雰囲気です。

下から見ると、こんな感じです。

シャンデリアが吊されている、天井のメダリオン。この意匠(デザイン)は、当時の職人さんが腕を振るって作ったのでしょうね。

白が映えるモールディング(縁飾り)は、石膏作りでしょうか。何種類もあり、手が込んでいます。

残念なことに、建設から88年経過しているため、モールディングの剥落があちこちに見られます。校長先生がおっしゃるのに、「この上は普通教室なので、どうしても椅子や机を動かす振動で落ちてしまうのでしょう。でも隣の事務室の上は職員室なので、あんまり外れていないんですよ。」とのことでした。

青のビロードが美しい椅子。そう言えば昭和の時代には、こういう椅子をよく見ましたが、最近は見かけなくなりましたね。これも、修理して使っているそうです。

卒業生でライオン宰相と言われた、濱口雄幸氏の直筆の書が2つ掲げられています。右は「質実剛健」と書かれており、来校した際に即興で書いてもらったそうです。

濱口氏は昭和4年に首相となりましたが翌年凶弾に倒れ、昭和6年8月に亡くなりました。2ヶ月後の10月に落成となったこの校舎は、見ることができなかったわけです。

この衝立も、いかにも年季が入っていますね。
毎年4月に新入生は 校友会の会長さんの【追手前高校の歴史学】の講演を聴き、この校長室も見学するのだそうです。

調度品も、いかにもどっしりとした昭和の重厚感があります。

追手前高校は大正11年、昭和天皇が皇太子時代にご視察にいらっしゃり、翌12年には梨本宮殿下と皇族の方々をお迎えする機会が何度かあったため、こうした貴賓室が作られたのかもしれません。小さな写真は校史資料室にあったもので2008年のコラムに書きましたが、「大正12年、梨本宮殿下」と添え書きがありました。(コラム第299回「歴史を感じた同窓会」より)

いかがでしたでしょうか?
追手前高校の近代建築の面影が今も強く残っているのは、大きな財産です。しかも現役の高校生達がそこで学んでいるって、本当に素晴らしいことです。
少しでも皆さまにも、こうした歴史をしのんで頂けましたら幸いです。