第925回 「心の豆電球」

10月17日

先日まで暑かったのが、一気に秋になったような神無月の週末です。

実は昨日、本当に素敵な出来事がありました。今年はコロナ禍でメインの仕事となったリハビリテーション・カレッジの授業で 7月に担当したAさんが、わざわざ休憩時間に訪ねてきてくれたのです。

私の授業では、必ず最後にレポートを書いて頂きます。障害ケース・スタディの授業で私と中村がこれまでの人生を自己開示すると、少なからぬ学生の皆さんが自分のこれまでの人生をふり返り、何かに気づいたり語ったりしてくれます。それによってわずか数回しか担当できなくても、ときに彼らの深い心のひだに触れさせてもらえることがあります。Aさんもまた、そうでした。

社会人体験の紆余曲折から再び学ぶことを選び、悩みつつ頑張っている姿にとても心を動かされ、私なりのエールを送れないかと考えました。手紙もいいのですが、聞いてもらいたい普遍的な言葉を贈れないかと。それなら、やなせたかしさんの「明日をひらく言葉」です。

アンパンマンの作者、やなせたかしさんのこの本は、やなせさんご自身の寂しかった幼少期や劣等感、70歳近くまで売れずに苦労された人生、それでも前を向くことの大切さが書かれています。文庫本なので読みやすく、でも何かのときにはきっと心を支えてくれる素晴らしい言葉が沢山載っている、大好きな本です。授業はもう終わって会えないので、担当の先生に本を渡して欲しいとお願いしました。

そして昨日、違う学年の授業の合間、Aさんがわざわざ来て、お礼を言ってくれたのです。大きな封筒を渡してくれ、中には心のこもった手紙と綺麗なカードが。

アンパンマンに込められた やなせ先生の思いやメッセージ、人生経験の中で見出されてきた考え方や物事の捉え方は、とても勇気と元気をもらえました、とあり「本当に良かった」と胸が一杯になりました。中でもAさんが気に入ったと書いてくれた言葉。

「人生は椅子取りゲーム、満員電車に乗り込み、あきらめて途中下車せず立ち続けていたら あるとき 目の前の席が空いた。」

まさに私が伝えたかった箇所を手紙に綴ってくれ、思いが伝わったことに、心の豆電球がぽっと灯ったような感じがしました。

秋が好きだというAさんが贈ってくれた、柿のスタンドカード。
私には、ダイヤモンドよりも輝いている 素晴らしい宝物です♪

「これから先、たぶん何度も生きづまることがあると思いますが、そんな時はあんぱんとコーヒーを飲みながらゆっくり読ませて頂きたいと思います。」

う~ん、いいなぁ!(笑)

心優しいAさんにとって、稔りある秋でありますように。
そして、皆さんの明日もひらけますように。

第909回 「ヘレン・ケラーとコミュニケーション」

6月27日

今回の新型コロナ騒動でソーシャルディスタンスが必要となり、コミュニケーションがとりにくくなったと、皆さん感じていらっしゃるでしょう。私も大学の講義がオンデマンドになったり、受講なさる皆さんがマスク着用で離れているためペアワークがし辛くなったりと、コミュニケーションの講座には逆風を感じています。

では、この制約下でどうコミュニケーションをとればいいのか?学生達に教えるのに、ふとヘレン・ケラーのことを思い出しました。「見えない、聞こえない、話せない」三重苦を背負ってしまったヘレンのコミュニケーションでの苦労はこんなもんじゃなかったはずだ、と。

医療系専門学校の学生たちに、ヘレンのことを初めて「医療コミュニケーション論」の授業で伝えてみました。「ヘレン・ケラーを知ってる人は?」と聞いてみると、なんと34人中5~6人しか手が上がりませんでした。え、たったこれだけ?これは伝えねば!と語るのに力が入りました。(笑)

ヘレン・ケラーは1880年、日本で言えば明治13年、アメリカ南部に生まれました。両親は名家の出で、家庭は裕福でした。
しかしヘレンは、わずか2歳の時に高熱に伴う髄膜炎にかかってしまいます。
一命は取り留めたものの、視力と聴力を失い、聞こえないので話すこともできなくなり、三重苦となってしまいました。

両親からしつけを受けることもできないため、わがままに育ってしまったようです。幼児期は食べ物の匂いを嗅ぎ、手づかみで人の食事も取って食べたり、気に入らないとかんしゃくを起こして暴れ回ったりするなど、マナーのかけらもない、動物的な行動しかできなかったそうです。

でも、ヘレンの立場に立つとどうでしょうか?「見えない、聞こえない、話せない」わけですから、闇と静寂に包まれ、本能だけが頼りだったのでしょう。
ヘレンは後にその頃のことをこう語っています。
「私は無の世界の住人だった。そこには過去も現在も未来もない。
感情や、理性的思考のかけらもない。昼も夜もない。存在するのは空白だけ。」

さて、ヘレンが6歳のとき、家庭教師として20歳のアニー・サリバンが派遣されました。サリバン先生自身、幼いころにはメガネで矯正しても視力が上がらない「弱視」でした。手術で視力を得た彼女は自分の経験を生かし、ヘレンに「しつけ」や「指文字」「言葉」など様々なことを根気よく教えました。

指文字というのは、アルファベットを指で表したものです。通常はその形を見て判読するのですが、ヘレンの場合は見えなかったため、サリバン先生は指文字を触らせて伝えようとしたのです。ヘレンの手に【人形】を握らせ、その名前【DOLL】を手のひらに綴りましたが、ヘレンには意味不明でした。2つの関連性がわからなかったからです。それでもこの「手遊び」をヘレンはすぐにマスターし、1ヶ月で30近い単語を覚えたそうです。

しかし最初、スプーンやナイフを使わそうとするサリバン先生にヘレンはかんしゃくを起こし全力で抵抗し、食事はまるで格闘のようでした。「奇跡の人」という舞台や映画は、ヘレンがサリバン先生によって、指文字を理解できるようになるまでを物語にしています。

1ヶ月以上たち、ある日サリバン先生は井戸にヘレンを連れて行き、井戸水をかけ、指で【WATER】とつづりました。物と指文字の関係性!初めて、ほとばしるようにヘレンは理解できました。
「すべての物に名前があり、そこから新たな考えが浮かぶ」ことを。

やがてヘレンは驚異的な学習能力で指文字や言葉を覚え、人とコミュニケーションをとることを獲得しました。二人は言葉という絆で結ばれ、ヘレンは孤立から解放され、いらだちが収まり、素直で明るい少女に生まれ変わりました。何より知識を学ぶことができるようになったのです。盲学校からろう学校に入学し、発声の勉強に励み、不明瞭ながら話せるようにもなりました。

20歳になったヘレンは現在のハーバード大学に入学。22歳で『わたしの生涯』を執筆し、新聞に連載します。29歳のときには社会党に入党し、婦人参政権運動や公民権運動など多くの政治的・人道的な運動に参加しました。最終的には、教育や社会福祉の活動家にまでなったのです。サリバン先生は約50年に渡りよき教師、よき友人としてヘレンを支えたのです。

ヘレンは言いました。
「私は神様がくれた多くのもののうち、見る力と聞く力、そのたった2つを失っただけなのです。」
「本当にやっかいな障害は、目が見えないことでも、耳が聞こえないことでもなく、両目が見えても真実を見ようとしない、両耳が聞こえても人の話を聞こうとしない、頑迷な心です。」

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すごいと思いませんか?ヘレンが孤独だった幼少期には、思考もなく本能しかなかったのが、指文字という言葉を覚え、物にはすべて名前があると言うことを理解してから、コミュニケーション、対話にも目覚めたのです。それによって知識を獲得し、人間として驚異的な成長をしていったわけです。人は社会的動物と言われます。つまり対話ができるって、人間を人間たらしめる、とても重要なものなんですね。

コロナ禍で、コミュニケーションが制約され、人々は不自由を感じてストレスが募っています。しかし、ヘレンのことを思えば、今の私たちはなんと自由に、多様なコミュニケーションがとれるのでしょう!

コロナ禍の今、足りないものを考えるのではなく、すでに持っているものをどう活用するのかが問われているのではないかと私は思うのです。

第857回 「ホイットフィールド船長」

6月28日            中村 覚

前回のコラムで取り上げていた「ジョン万次郎資料館」。説明書きのボードを1枚1枚丁寧に読み 、展示を見終った後、濃密な1本の映画を観た気分になりました。日頃、展示会などに行っても要所 要所?をサッサと見て回るだけなのに。(笑)万次郎の壮大な人生に釘付けといった感じでした。

たゆまぬ努力を土台に その上に花開いたような運命の巡り合わせ、ホイットフィールド船長との出会い。それから10年の歳月をかけての帰国。その翌年、ペリー来航により日本国は大きなうねりの中へ。その後 幕府に取り立てられ日本の行く末を見守ることに。一個人のこだわりなど嘲笑うような運命に翻弄されながらも、太く生き抜いた人生。そんな人物に「決してあきらめてはいけない。」と言われれば、黙って頭を垂れる以外、もう何もありません!みたいな。

そんな万次郎の波乱に満ちた人生の中から、漂流した孤島で彼を救助したホイットフィールド船長に今回、スポットを当ててみたいと思います。

というのも、「ジョン万次郎資料館」でこの「漂巽紀畧」(ひょうそんきりゃく:万次郎の海外での体験を聞き取りをした本)を買って読んだことがきっかけです。

これを読むまでは船長の名前を聞いても「あぁ、そんな名前の人だっけ?」くらいのことでしたが、読んでからは 是非この人のことを紹介したい! と思うようになりました。

本の中でホイットフィールド船長についての描写はいくつかありますが、孤島から万次郎を含む5名を救助してから、途中 ハワイ諸島に寄港する、この期間に絞って紹介します。まずは船長と救助された万次郎らが初めて会う場面です。

ジョン・ハウランド号の船内。 食うや食わずの無人島生活で体が衰弱しきった彼らに、これを食べるようにと炊事係の男がイモ類の煮物を差し出します。 ところが、それを見た船長は炊事係の男をきつく叱責するのです。

長い間、島で飢えた暮らしをしていた人間が急にたくさんの物を食べるのは身体によくない。 お前はそんなことも分からんのかっ!といった具合です。

確かに ほとんど食べ物を口にしない生活で弱った人間が 急に固形物をたくさん食べるのは、百害あって一利なしです。私達も風邪で寝込んだ後などは、お粥を食べて体を慣らします。

飢えてボロボロになっている東洋人に対するこの言動が、ホイットフィールド船長の人物像を端的に表現していると思います。

救助した後にハワイ諸島のオアフ島に寄港し万次郎らの仲間の世話をし、それぞれの住まいが定まると船長は衣類や銀貨を贈りました。そして万次郎の仲間で年長者であり船頭にあたる者に「万次郎を母国に連れて行き養育をしたい。どうかこの願いを聞き届けてほしい。」と頼むのです。

この相手を尊重しながら無理強いをしない話の進め方、「俺がお前らを救助してやったのだから」という気持ちなど微塵もありません。
命の恩人である船長の願い、そして船長が愛情の深い人物であることを重々承知していた船頭は、そういうことであれば 「あとは万次郎自身が決めたらいい。」と返事をします。

ホイットフィールド船長が万次郎をここまで気に入った理由は、15歳という年少者であったため他の者よりも頭も柔らかく変化に対応する能力があったからだろうと私は思っていました。 ところが この本を読んで初めて知ったのですが、救助された5名の中に、五右衛門(16歳)という人物もいたのです。

最年少であった万次郎ですが、五右衛門とは1歳違いで大差ありません。これを考えると 年齢による頭の柔軟性とは別に、万次郎の天性の利発さを船長は見抜いていたのでしょうか。

30数名の船員を束ね、全責任を負う立場にあるホイットフィールド船長。実は船長はこの時36~7歳くらいだったと思われるのですが、人を見る目、人心掌握の術などを きっとすでに持ち合わせていたことと思います。そして、なによりも人間味のある言動が魅力的だと思いました。

「人生は出会いである」とはよく言いますが、誰とどこでいつ出会うのか、すでに神の領域のような話になってきますが(笑)、「出会い」をより良いものにしていくのは人の成せる業なのでしょうか。きっとそうですよね?(笑)