第857回 「ホイットフィールド船長」

6月28日            中村 覚

前回のコラムで取り上げていた「ジョン万次郎資料館」。説明書きのボードを1枚1枚丁寧に読み 、展示を見終った後、濃密な1本の映画を観た気分になりました。日頃、展示会などに行っても要所 要所?をサッサと見て回るだけなのに。(笑)万次郎の壮大な人生に釘付けといった感じでした。

たゆまぬ努力を土台に その上に花開いたような運命の巡り合わせ、ホイットフィールド船長との出会い。それから10年の歳月をかけての帰国。その翌年、ペリー来航により日本国は大きなうねりの中へ。その後 幕府に取り立てられ日本の行く末を見守ることに。一個人のこだわりなど嘲笑うような運命に翻弄されながらも、太く生き抜いた人生。そんな人物に「決してあきらめてはいけない。」と言われれば、黙って頭を垂れる以外、もう何もありません!みたいな。

そんな万次郎の波乱に満ちた人生の中から、漂流した孤島で彼を救助したホイットフィールド船長に今回、スポットを当ててみたいと思います。

というのも、「ジョン万次郎資料館」でこの「漂巽紀畧」(ひょうそんきりゃく:万次郎の海外での体験を聞き取りをした本)を買って読んだことがきっかけです。

これを読むまでは船長の名前を聞いても「あぁ、そんな名前の人だっけ?」くらいのことでしたが、読んでからは 是非この人のことを紹介したい! と思うようになりました。

本の中でホイットフィールド船長についての描写はいくつかありますが、孤島から万次郎を含む5名を救助してから、途中 ハワイ諸島に寄港する、この期間に絞って紹介します。まずは船長と救助された万次郎らが初めて会う場面です。

ジョン・ハウランド号の船内。 食うや食わずの無人島生活で体が衰弱しきった彼らに、これを食べるようにと炊事係の男がイモ類の煮物を差し出します。 ところが、それを見た船長は炊事係の男をきつく叱責するのです。

長い間、島で飢えた暮らしをしていた人間が急にたくさんの物を食べるのは身体によくない。 お前はそんなことも分からんのかっ!といった具合です。

確かに ほとんど食べ物を口にしない生活で弱った人間が 急に固形物をたくさん食べるのは、百害あって一利なしです。私達も風邪で寝込んだ後などは、お粥を食べて体を慣らします。

飢えてボロボロになっている東洋人に対するこの言動が、ホイットフィールド船長の人物像を端的に表現していると思います。

救助した後にハワイ諸島のオアフ島に寄港し万次郎らの仲間の世話をし、それぞれの住まいが定まると船長は衣類や銀貨を贈りました。そして万次郎の仲間で年長者であり船頭にあたる者に「万次郎を母国に連れて行き養育をしたい。どうかこの願いを聞き届けてほしい。」と頼むのです。

この相手を尊重しながら無理強いをしない話の進め方、「俺がお前らを救助してやったのだから」という気持ちなど微塵もありません。
命の恩人である船長の願い、そして船長が愛情の深い人物であることを重々承知していた船頭は、そういうことであれば 「あとは万次郎自身が決めたらいい。」と返事をします。

ホイットフィールド船長が万次郎をここまで気に入った理由は、15歳という年少者であったため他の者よりも頭も柔らかく変化に対応する能力があったからだろうと私は思っていました。 ところが この本を読んで初めて知ったのですが、救助された5名の中に、五右衛門(16歳)という人物もいたのです。

最年少であった万次郎ですが、五右衛門とは1歳違いで大差ありません。これを考えると 年齢による頭の柔軟性とは別に、万次郎の天性の利発さを船長は見抜いていたのでしょうか。

30数名の船員を束ね、全責任を負う立場にあるホイットフィールド船長。実は船長はこの時36~7歳くらいだったと思われるのですが、人を見る目、人心掌握の術などを きっとすでに持ち合わせていたことと思います。そして、なによりも人間味のある言動が魅力的だと思いました。

「人生は出会いである」とはよく言いますが、誰とどこでいつ出会うのか、すでに神の領域のような話になってきますが(笑)、「出会い」をより良いものにしていくのは人の成せる業なのでしょうか。きっとそうですよね?(笑)