第1089回 「オー・ヘンリー傑作集」

1月12日         中村 覚

取っ付きやすく たいして時間もかからないから、すきま時間とも相性も良い。登場人物を忘れて数ページ後戻り、こんな心配もありません。これ、短編小説の良さではないでしょうか。これまで短編小説はあまり読んだことがなかったのですが、ある時、作家 オー・ヘンリーの書いた物語を友人から聞きました。なにも友人は本を片手に朗読してくれたわけではなく、これまで読んだ本の記憶を引っ張り出して話をしてくれたという、どこにでもある雑談として。(笑)

ところが、大まかな話の内容が後々まで頭に残りました。話にインパクトがあったからです。インパクトと言っても奇抜さからくるものではなく、安心感、安定感からくるもので、人情味があり温かな気持ちになります。それからしばらく経って、またオー・ヘンリーの作品の話が出ました。さすがに2回目ともなると話の内容もさることながら、「オー・ヘンリー」という作家の名前にも意識が向きます。

後からわかったことですが、この方はアメリカ文学史の中で屈指の短編の名手と言われる人物です。代表作として「賢者の贈り物」「最後の一葉」など。オー・ヘンリーの名前を知らなくても、これらの小説の題名ならどこかで聞いたことがあるという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

でも、私はその時まだ なんにも知りません。耳で「オー・ヘンリー」と聞いても最初は「おう へんり?」これをなんとなく漢字表記したものが頭に浮かび、アジアの人かと思いました。西洋人とわかった時も「オー・マイ・ゴッド」のように神に訴えかけるような名前で、ずいぶん情熱的な人だったのかなぁと。おバカな話はこれぐらいにして…。

作家というのは数奇な運命をたどる方が多いと思います。オー・ヘンリーは1862年、医師の息子として生まれます。薬剤師、銀行員、新聞記者などを経て、ある時 横領の疑いで収容されます。服役後、本格的に執筆を開始。ところが47年という短い生涯の中で、小説を書いたのは亡くなるまでの8年間。作品とは人生のエッセンスを凝縮したものだとすれば、活動期間の長短を問うのは筋違いなのかもしれません。でもやっぱりもっと長生きをしてくれていたらと…。

「オー・ヘンリー 傑作集 Ⅰ」の最初に収録されているのは「警官と讃美歌」。これが、私が初めて読んだ作品です。私はこの話がとても好きになり、もうオー・ヘンリーさんのことは忘れません。(笑)

主人公はわずかの小銭にも縁のない人物です。冬が到来し、そろそろ外では寒さをやり過ごせなくなった頃、例年のようにうまく警察のお世話になって暖かな寝床と食事をと慎ましやかに願うのです。しかしそのためには、なるべく人様に迷惑をかけないよう、かつ 法に触れる必要があります。捕まるのが目的ですから、わざと警官の前で色々と試すのですが、どういうわけか今回に限りこれまでのようにうまくいきません。途中からおかしい、なぜだ?と自分の不運を嘆き始めます。

そして もう半ば諦めかけた時に古びた教会の前を通りかかると、自分のよく知っている讃美歌が流れてきます。その心洗われる歌声に接した時に、これまでの人生を振り返り、自身の至らなかった部分を一つ一つ拾い上げていきます。

私がとても印象に残ったのは、この過去を振り返るシーンです。「さもしい動機」「転げ落ちた穴」など今の自分を形作る部分に向き合います。いくつかあるこういった表現の中に「むだにした才能」というのが出てきます。その昔、主人公が一体何に才能を見出していたのか、それは読み手に委ねられていますが、とにかく今となっては機を逃がしてしまったと後悔の念が次から次へと。

ところが、物語全体を覆う温かみも手伝ってか、私にはこの「むだにした才能」という表現が寂しく聞こえません。「才能(信じるもの)の素地はまだ残っている。周りからの承認を得られる程の飛躍はもうないのかもしれないけれど、ゼロではない。半歩前に立って今後は自分を引っ張ってくれる、そういったものになるかもしれない。」そんなふうに優しく響きました。

誰だって、物事を後から目線で考えれば、あの時もっと努力しておけばよかった、もうひと踏ん張りしておけばよかったと思うのは当然です。創意工夫や向上心の類を持っていればいるほど、その気持ちは強くなっても当然です。
でも、実際はもう誰も引き返せません。

こんな勝手な解釈は、実は作者の意図するところではないのかもしれません。でも、オー・ヘンリーの作品だからこそ、こんなふうに考えることができたのではないかと思っています。

もちろん、話はこの後 短編の名手オー・ヘンリーならではの結末に続くのですが、ご興味のある方は是非一度、手に取ってみて欲しいです。