第673回 「子鹿園の追憶」

11月27日            中村 覚

記憶力というものは、多分・・・
小学6年生の時には小学2年生の頃を思い出すのはけっこう簡単だったはず。高校生の時に中学生の頃を思い出すのもそうでしょう。 社会人になりたての頃、楽しかった学生時代を懐かしく思い出すことも ごくごく当たり前だったはずです。二十歳頃までは、過去の記憶は、頭の中で ある程度 整理整頓されていたので、思い出すのも簡単でした。

ところが最近、記憶はゴチャ混ぜ状態です。 ○○に旅行に行ったのは、2年前?いや5年前か・・・? 日記でも見ないことにはわかりません。なにより 何年前かという些末な部分は もうどうでもよくなってきてます。 2年前も5年前も 大した差はなく、「ちょっと前」でくくれますし、10年以上 前のことになれば「昔」で片付きます。40歳手前になると どんどん人間がおおらかになっていくのでしょうか?(笑) ~にしても、子供の頃に強烈に記憶したはずのものまでが、思い出しにくくなっている現状、これ、一体、どういうことでしょうか。

というわけで、思い出せる分だけでも思い出して、今の内に書いておくのも一つの手かと思います。

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第670回のコラムで、筒井が「療育福祉センター」について書いていました。私は子供の頃、約4年間、ここでお世話になっており、その頃の名称はまだ「県立子鹿園」でした。 この度、建て替え工事という大きな区切りでもあるので、過去の記憶を絞り出してみます。 ひどく個人的な内容になりますが、 「書いてよし」 と筒井からゴーサインも出ましたので。(笑)

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股関節の病気で入園したのは今から約34年前、4才の時です。園では治療の一環として、寝る時以外は足に装具をはめていました。同じ症状の同年代の子と一緒に6人部屋で寝起きを共にします。朝、起床は6時。 看護師さんが「おはようー」と入ってくるなり部屋の電気を点け、窓際のカーテンを開けると1日の始まりです。 4才の子供が6時 起床・・・ 厳しいぃぃ。 今 思うと泣けます。 もっと寝かせてあげて下さい。 冬の寒い日など、もっとゆっくり寝たかったのですが、共同生活ですから つまらぬ わがままは通りません。 共同生活で育もう、協調性! でも入園して以来、いっぱいいっぱい使ったので、退園する頃には もうなくなっていました。

朝食を食べた後、(多分、みんなで 食堂で食べたはず。) それぞれ 付属の保育園や、年齢が上がれば小学校に行きます。そしてたくさん遊んで、勉強して「ただいま!」と帰ってくるのは自分の部屋。普通なら家族の待つ家に帰るはずですが、園の生活では学校から帰っても、他人と一緒の生活です。 6人部屋ですから 厳密に言うと、寝起きするベッドの上だけが自分の空間。この頃はこれを当たり前と思っていました。

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今でもはっきり覚えているのは、自分のベッドの上に置いてあった色鉛筆を、向かいのベッドの子が、断りもなく、ある日 勝手に使っていました。私も子供、むこうも子供。「あっ、色鉛筆、貸してもらっているよ」「うん、良いよ、いつでも使ってね」 などとは爪の先程も思いません。強く思ったのは「勝手に使うなよ!」でした。別に相手が嫌いだったわけじゃなく、その行為が嫌でした。このように 融通の利かない子だったんです。

まぁこんな調子ですから、園での一番の楽しみは週に一度、家に帰れることでした。土曜日のお昼をみんなと食堂ですませた後、自分の部屋に帰ると、それぞれの親御さんが我が子を迎えにきています。この時の嬉しさと言ったら園からの脱出に等しく、最高でした。このように土曜のお昼から、それぞれ我が家に帰り、翌日の日曜日の16時までには園に戻ってこなくてはいけませんでした。それが規則です。 迎えに来てもらう側の子供たちは、どれだけ嬉しかったことか。

でも 今 考えると、東は芸西や室戸、西は宿毛から我が子を迎えに来ていた親御さんのご苦労は計り知れないと思います。それに比べ、我が家は園から車で15分ぐらいの所にありましたので、「これがたまるかっ!」言うぐらい、親は楽チンでした。

家に帰っても外してはならない装具を、帰りの車の中で 早速 外して身軽になった後、いつもの駄菓子屋さんに寄ってお菓子を買ってもらうのが、何よりも嬉しかったです。私は子鹿園で7歳までお世話になりました。退園できることがわかった半年前から、園の中でも装具をのけてのびのび過ごすことができました。心の余裕ができたのか、嫌だった園での生活も残りの半年は自由を感じることができたように思います。

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断片的な記憶のつぎはぎのような文章になりましたが、記憶とは楽しかったことよりもしんどかった部分の方が強烈に残るのでしょうか。