第913回 「高知追手前高校 百年史」

7月24日

今週は、嬉しいことがありました。
昨年私が本コラムにアップした「高知追手前高校シリーズ」4回を追手前高校校友会 東京支部の副会長のTさんが目にとめてくださり、同級生を通じて「追手前高校校友会 東京支部」のホームページに掲載させて頂けないかとご連絡を頂いたのです。

その後ご本人からもメールを頂き、なんとTさんは2つ上の夫の同級生だったことが判明。しかも東京支部の会長さんは、夫と同じクラスだったと!こんなご縁って、あるんですねえ。びっくりです。

そのメールを頂いた同じ日、たまたまネットで見つけた「高知追手前高校 百年史」の本も届きました。700ページ以上あり、100ページは写真で、メインは明治・大正・昭和の学校史。また浜口雄幸元首相はじめ土佐の交通王の野村茂久馬など46人の人物録、ボート、野球、水泳など17のスポーツ部活動史と、明治7年から昭和53年にかけての年表付き。オーテピアで見た貴重な資料でしたので、追手前フリークの私は自宅にもぜひ欲しいと思い、注文していました。

改めてじっくり見ていくと、コラムで書いたことの答え合わせのような写真がいくつか見つかりましたので、ご紹介しましょう。

第867回 「高知追手前高校④ 追手前博物館」でご紹介した、奉安殿。

「戦前の日本で天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語などが納められていた建物です。敗戦時、GHQの指導で、美術教員がノミで中央の菊のご紋を削ったのだそうです。その痕跡が見られました。」

そして今回、まさにその最中の写真が「百年史」にありました!
「昭和20年晩秋・奉安殿の菊の紋章除去の光景」。この先生は
「上島一司」さんと別の書籍に書いてありました。

この写真を撮った人も上島先生も、辛かったでしょうね。あちこちでこの光景が見られたそうで、ごっそりと紋章を削った学校もあったようです。しかし、この先生はうっすらと菊の紋章がわかる程度に削っています。

「GHQの命令でも、心までは削れない!」というような、当時の日本人としての気概が伝わってくるようです。

そして、第866回 「高知追手前高校③ 元貴賓室と弾痕」でご紹介した、
校長室に残る、弾痕。昭和20年7月4日、高知市は米軍の大空襲を受け、追手前高校も講堂などが焼失しました。

これも、昔の写真が載っていました。クリックで、大きくしてご覧下さい。

窓枠はあえて同じものを残しており、弾痕が生々しい戦争の傷跡を見せています。
「かつては校舎の南壁や時計台にも弾痕が残っていたそうですが、
現在も残っているのはこれだけです。」とコラムに書きました。

そして今回、こういう写真も見つけました。

クリックすると、校舎の左上と右上に弾痕が確認できるかと思います。
写真が荒くて不鮮明ですが、時計台の中層階左側にも弾痕らしきものが見えます。
よくぞまあ、この校舎が残ってくれたものです。

1931年(昭和6年)に建設された高知追手前高校の校舎は、89歳。
まさに歴史の生き証人であり、誇りに思います。